さかさまの国

はじまりは“溺れる魚”だった。

誰かにメールで伝えた本のタイトル。

実際は魚違いで、それは別の本のものだった。

慌てて訂正すると、送った相手から

「ところで、溺れる魚って面白いですね。」

と返ってきた。

気にも止めなかったが、確かに“魚が溺れる”なんて…。

その様を思い浮かべると、何とも奇妙で滑稽で、“溺れる魚”という言葉が何かの力を得た呪文のようにも思えた。

「溺れる魚」という本を私は読んだ事が無く、その内容も知らない。

けれどどこかで目にしたその文字の連なり、耳にした響きの網に、無意識の内に引き寄せられていたのだろう。

そういえば、アキ・カウリスマキ監督の映画に“真夜中の虹”という邦題の作品があった。

それだってよく考えれば可笑しな話だが、皆が寝静まった丑三つ時、夜空に七色の橋がうっすらと浮かび上がる光景は、きっと言葉にならぬ美しさだろう。

そうして、まるで童歌でも口ずさむように、道を歩きながら、電車に揺られながら、窓越しにぼんやり外を眺めながら、私はその言葉のあやとりに夢中になっていった。

やわらかな石

ほかほかの氷

バタ足する蝶

ひとりぼっちのパレード

雪の砂漠

底なし丘

空の端

音の香り

まばゆい影

朝の闇

懐かしい未来

永遠の刹那

新しいフレーズが思い浮かぶ度に、それは息づき、歩き出し、平面を飛び出して、庭となり、村となり、町となり、やがて一つの小さな国が創られていくようだった。

そう、湖の鏡に映る“さかさまの国”のような…。

それから暫くして、その熱はすっと冷めた。

けれどその“さかさまの国”で、今度は私によく似た天邪鬼が言葉のあやとり遊びをしているような、そんな気がふとする時がある。

その時、きっと彼女の“さかさまの国”で、私は目を覚ます。