草枕

家から駅までの通り道に、四角い座布団のような草はらがある。

半年ほど前に家が取り壊され、そのまま放置された空き地で、そこだけうっそうとした小さな茂みになっている。

同時にそこは虫たちの集合住宅となっていて、帰路通り掛かると「おかえり、おかえり。」と虫たちの大合唱が迎えてくれる。

月明かりや星々の瞬きが美しい晩には、そこはまさに草枕の舞台となった。

私はそこを通るほんの数秒のひとときが好きだった。

疲労でくたくたの日も、嫌な事があった日も、そこを通る束の間は何だかまっさらな気持ちになれた。

ただ美しい歌声に耳を傾け、空を見上げる事ができた。

とても穏やかな秋の休日だった。

いつものようにその空き地の前を通った時、視界の片隅に一瞬何かの物影が映った。

私は二三歩引き返し、初めてその前で立ち止まった。

目を凝らして見ると、秋の柔らかな光を浴びて微かに揺れる草はらの中に、ぽつんと木の椅子が置いてあった。

それは何の装飾も無ければ、目立つ色もしていなかったし、背丈も伸びきった草木に埋もれてしまう程だったので、注意深く見なければ誰も気付かないような佇まいだったが、確かに昨日まではそこになかった。

何故かそれだけは確信が持てた。

一体誰がどんな目的でここに椅子を置いていったのだろう。

テーブルも無く、ただ椅子一脚だけ‥。

謎は深まるばかりだったけれど、そうずっと立ち止まっている訳にもいかず、私は何となく写真を一枚だけ撮って、その場を去った。

その晩も恐らくその椅子はそこにあって、暗くてその姿はよく見えなかったけれど、虫の鳴き声と共に確かにその気配を感じた。

でもそこで何か行われたり、誰かが足を踏み入れた形跡はなかった。

翌日のお昼過ぎ頃だろうか。

私は駅に向かってまたその空き地のある通りを歩いていた。

すると、視界の先に目を疑うような光景が入ってきた。

昨日までの四角いふかふかの草はらがすっかり綺麗に刈り取られ、殺風景な更地になっていたのだ。

椅子の姿形も全く無く、昨日私が目にしたものはまるで幻のように思えた。

益々そこに一日だけ椅子があったという出来事が、不思議で謎深くなった。

そして、その事実に何故か気付いてしまった私‥。

その小さな衝撃に心がざわめいて、でもきっと他の誰にもわかって貰えないだろう高揚した気持ちを抱えたまま、私は駅に向かって歩き続けた。

そうして、幼い頃見たある夢のことを思い出していた。

それはモノクロームの夢で、私は実家の傍の神社にいた。

そこは私の恰好の遊び場であり、庭だった。

ちょうど”どんと祭”が行われた後で、境内には細い竹に括り付けた縄で囲まれた土俵のような仕切りがあり、その中には火を燃やした黒い痕跡と炭の残香がまだ漂っていた。

私は上着のポケットから、手に握れるだけのビー玉をおもむろに取り出して、その中に投げ入れた。

飛び出したビー玉は、真っ黒い土俵の上に当たり弾けた。

その瞬間ビー玉だけに色彩が灯り、再びモノクロームの地面に転がった。

それは何かの儀式のようでもあったが、私はただひたすら独りぼっちでビー玉を投げ入れては色取りどりに弾けるビー玉を眺めていた。

その夢のことを後日「こんな夢を見たよ。」と私は母に話した。

すると母はいつになくその話に聞き入り、そして真剣な面持ちで幼い私にこう言った。

「その夢をしっかり憶えておきなさい。これからもずっと忘れないように。」

もしも昨日から今日に掛けて私が目にした出来事を、幼い頃のように話したら、母は大人になった私に今度は何と言うだろう。

きっとあの時と同じ言葉を、私の目を見て言うだろう。

題名も主役もない、もしかしたら誰の目にも触れることのない小さな物語を、決して忘れまいと私は心に誓った。

時折、光と風をたっぷり含んだ草枕に頭をもたれ、そのページを捲りながら。