J-COOK
トーキョーという街に、或る一軒のカフェがある。
キラー通りから細道を入ってすぐ、ガレージを少し下ったところに、そのカフェはひっそりと佇んでいる。
中の様子が覗えるガラス戸には、向かって右側にアントニオーニ「欲望」さながらのゲンズブール&バーキンのポスター、左側には太くて大きなピカソの右手が、どことなく仁王像の雰囲気でこちらを向いている。
扉を開けると、来ると知っていたようにいつもの笑顔でここのご夫婦が迎えてくれる。
二人っきりで営むこのカフェは、朝8時から休憩なしで夜10時まで。
月曜のみお休み。
この場所で22年間、世界が変わろうとずっと変わらぬスタイルで訪れる人を迎えている。
店内は二部構成になっており、意外と広い。
入口から突き当たりのカウンターまでは、天井から日が降り注ぐスペース。
突き当たりを曲がると一変、薄暗く、シェードランプの明かりがムーディーなスペース。
壁にはジャズやブルースマン達のポスター、世界地図、どこか遠くの街の写真・・・。
何だか旅の途中にふらりと立ち寄ったような、そんな気分になってくる。
ガラスのショーケースには、一つ一つ微妙に表情が違い愛らしいイヌのマジパン、お手製のケーキ達、食べる前にテーブルでちょっとした魔法の儀式をしてくれるプリンのまあるい器がお行儀よく並ぶ。
その隣には未だ健在のピンクの公衆電話。
時折リンリーンと甲高く鳴る。
水を流す時懐かしい感覚になるトイレもまた独特で、初めて来た人につい入るようお勧めしたくなる。
パッチワークのように映画やレコード、展覧会の無数のチラシが貼られた壁の、ちょうど腰を下ろして視界に入る先にワイエスの描いた少女を見つけて、トイレで一人微笑んでしまった。
そこから出るとすぐ、「ダウン・バイ・ロー」のポスターがある。
よく見るとジョン・ルーリーの酔いどれたようなサインも。。
確かにジョン・ルーリーが傍の席に座っていたとしてもそうおかしくないし、この店には、ジム・ジャームッシュの映画に出てきそうなそんな趣がある。
ごはんも勿論美味しい。
スパゲッティナポリタン、ハンバーグ、欧風カレー、うなぎの蒲焼ピラフ・・・そして身体にじんわり沁み込むスープ。
どれもこのお店の雰囲気そのままに、さりげなく、でも奥深い。
ここには、正直ゆえにちょっと不器用な生き方をしている人々がやって来る。
職種はさまざま。年齢もばらばら。
大事な人と食事をする人、打ち合わせをする人、仕事の合間に一服する人、仕事後の一杯を楽しむ人、夕飯のお買い物帰りに寄る人・・・。
店内にゆったり流れるジャズをバックに、それぞれの近況、映画や音楽、歌舞伎の話、時事ネタ、景気の話なんかも。
運が良ければ、東京の良き時代を知っている紳士、淑女の先輩方のお話に耳を傾ける事もできる。
私は以前、故郷仙台でパンと言えば「〇〇」という名店の、馴染み深い看板のイラストを描かれた方にここでお会いした。
幼い頃からずっと目にしてきたイラストは、細長いフランスパンを手にした西洋風の上品な女性の横顔で、とても印象的だった。
ある日偶然席がお隣になり、「失礼ですがもしかして・・・」とお聞きしたところ、その方は懐かしそうに頷いた。
80歳を越える巨匠は、佇まいもお喋りもとても洒落ていてユーモアがあり、時折好奇心に満ちた少年のような笑顔を浮かべた。
私は勝手ながら日本のWアレン(その方の方が年上だが。)と思っている。
ご主人は何故か、ジプシーやブルースなどちょっぴり影のあるものに詳しい。
私にも暗めの映画を貸してくれたりするのだが、初っ端がカサヴェテスの「壊れゆく女」でなかなか衝撃的だった。
いつかの誕生日には、ジョニ・ミッチェルの歌う~ハッピーバースデー~が店内に流れ、いつものプリンにチョコのメッセージと螺旋模様の真っ赤なロウソクが一本添えられ運ばれて来た。
このカフェを的確に言い表すのは難しい。
新しくもなく古くもない。
明るくもなく暗くもない。
癒しの空間でもなく刺激的な空間でもない。
閉鎖的でもなく開放的でもない。
例えようがなく、掴みどころがないようだが、何か一貫したものがいつも控えめにそこには流れている。
そしてそれが何とも心地よいのだ。
どんな地位の人もどんな毎日を送っている人も、ここの中では一人の“お客さん”となり、そのひとときを楽しむ事ができる。
そうして羽を休めた渡り鳥のように、またそれぞれの道に飛び立って行く。
めまぐるしい都会という街で日々生きる者にとって、あの角を曲がればいつものように変わらずあの場所が在り、あの人が居て、あの味がある、という事がどれだけ心強い事か。
今朝も8時に店を開け、今頃奥さんが店先の鉢植えにせっせと水遣りをしているだろうか。
トーキョーの一日が今日も始まる。
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