いのりのことば

フランシス・ベーコン展で、捻れたり、歪んだり、分裂したり、引きちぎりつなぎ合わせた塊みたいになった人間の肉体、顔、それが新しい生命体のように呼吸し、脈打つ様を目の当たりにしてから、改めて”三位一体”というものについて、思い巡らせていた。

私が生まれる前からカトリックだった我が家。

赤ん坊の時に洗礼を受け、物心つく頃には毎日「いただきます」「おやすみなさい」の挨拶と同じように「父と子と聖霊の御名によって、アーメン」と唱えながら、額と胸の前で十字を切っていた。

そうすると、今までもう何千回、何万回と私はそれをしてきた事になるのだろう。

けれど、何度唱え、どれほど十字を画いても、私にとって”三位一体”というものは実体が見えず、決して掴めない遠いものなのだった。

ベーコン展を観てから、すっかり習慣化してあまり気にも留めていなかった”三位一体”という謎めきが、見えないにも拘わらずその存在を大きく鮮やかに主張してきて、それは背後霊のようにうっすらと私に絡みついた。

そんな折、たまたま手にした北村太郎さんのエッセイに、イギリスの小説家グレアム・グリーン作「スタンブール特急」からの一節が書いてあった。

「この世にあるものはすべて、その理想的な本質において叙情的であり、その運命において悲劇的であり、その実存において喜劇的である」と。

なんとなく胸につかえていたものが、すとんと腑に落ちた気がした。ベーコンの絵や、私にとっての三位一体や、人生の色々の事が。

思わぬところに鍵は落ちているものだ。これだから、人生はおもしろい。

いのりのことばの中には、声に出す時正直少し気恥ずかしいようなものも幾つかあって、私が意識して時折声がうわずってしまうフレーズが「あなたをおいて誰のところへゆきましょう」である。

勿論これは神様に向かって唱える祈りの言葉に違いないのだが、そのエモーショナルな誓い、告白にも近いフレーズに萎縮してしまい、いつも歯の浮くような台詞を言わされている人、になってしまうのだった。

日常では決して聞かないし使わないであろうこの言葉を、不思議なことに、教会という空間の中で私は赤ん坊の頃から耳にし、ほんの小さな子どもの頃から、祈りとして口にしていた。

それは私の中でずっと、少し照れ臭く、でも美しい余韻を持つとても貴いことば、だった。

いつか私も浮いた台詞ではなく、自分の言葉として、誰かにこう言える日が来るのだろうか。

「あなたをおいて誰のところへゆきましょう」