少年の羽根

古い手帳には、観に行った展覧会や映画のチケット、お気に入りの写真やポストカードが、ぎゅうぎゅうに挟まっている。

そのなかに切り取られた小さなメモ用紙と、見知らぬ家族の写真が並んで入っている。

数年前、パリを訪れた際友人と入ったカフェ。

一番奥の居心地のよい席を確保して、久々の再会、積もる話に花を咲かせた。

一通り互いの近況など話し終え、ふと隣の席に目をやると、子供4人連れの家族が居た。

小さな子供が4人も居るにしては、その席は静かで落ち着いており、かといって常連客で賑わうこのカフェに馴染んでいるようにも見えなかった。

浮かれた観光客でも、馴染みの客でもない、どこか寂しげな(でも決して不幸でも不穏でもない)その家族に、私は妙に惹き付けられた。

そして思わずテーブルの上に置いていたカメラを手に取り、パチリと一回シャッターを切った。

沢山の話し声とお皿やグラスのカチャカチャ言う音に掻き消され、その一瞬に誰も気付いていないようだった。

尽きぬ話に興じてもう一度振り向いた時には、その家族はもう居らず、中年のギャルソンが慣れた手付きでテーブルを片付けていた。

すると急にギャルソンが顔を上げ、「プティ ピカソ!プティ ピカソ!」と少し興奮気味に笑いながら、私達の方へ一枚の紙切れを差し出した。

差し出されたその紙を覗くと、カフェの小さなメモ用紙いっぱいに、機関車の絵が描かれてあった。

黒ペンで描いた上に色鉛筆の赤が大胆に走っている。

それは、機関車が赤い色をしているのか、燃料が煙を吐きながら轟々と燃え盛っている様にも見えた。

車体を支える車輪も速く力強く回転しているようだ。明らかに機関車はその紙の上を走っていた。リュミエール兄弟が世界で初めて撮った機関車のような迫力で。

ギャルソンは小さくウィンクしてその紙を私にくれた。

帰国後現像してあがってきた写真を見ると、ちゃんとあの家族が写っており、父親の隣には5、6歳の少年が真剣な眼差しでテーブルに向かっている。

二度と会うことのないであろうその家族にとって、私の切り取ったその一瞬は、思い出アルバムに入ることもない、あまりにありふれた、とっくに忘れ去られたものだろう。

あの少年が将来ピカソのような大画家になることもないだろう。

けれどあの時ほんの一瞬、偶然にも交差した見知らぬ家族の写真と、そのテーブルに置き忘れられた機関車の描かれた紙切れを、私はこれからもずっと捨てることはできないだろう。

それは、天使が落としていった羽根のようなものだから。

そして、かつては自分の背中にもその白く柔らかな羽根が生えていたことを、忘れないために。

いや、きっとそうだと信じていたいから。