ラブレター

実家を取り壊すことになり、長い間家に取り残されていた古い写真や本、ピアノの部屋にいたフランス人形などが無造作にダンボール箱に詰められ、狭いこの部屋へ送られて来た。

その中に、母の日記か手紙のような文章が綴られたノートを見つけた。

日付には1975.5月とある。

母が上の兄と姉を連れ父と再婚し、父との間に下の姉が生まれる1年前のことだ。

ノートにはシュタイナーの『幼児と子供のためのお祈り』をコピーしてまとめたものと、天使や幼子イエスとマリア像、受胎告知の描かれた中世聖画のカードも挟まれていた。

母はこの時41歳。

文は谷川徹三著『宮沢賢治の世界』を読み終えた感想に始まり、自然の微かな変化、植物や小さな生命への鋭敏かつ純粋な感受性を持ち続けた賢治とD.H.ローレンス、二人の生き様について触れ、最後はこう締めくくられていた。

“とてもこのように私は生きることができないけれど、ただ少しでも感覚の濁るのを防ぎたい。透明な感覚を持ちたいと思います。

それからまた「草や木や自然を書くように、性のことを書きたい」と晩年の賢治が申したということを知って、涙が出るような思いをしました。

それまでの賢治の生き方を思うから。”

まるで10代の少女の独白に触れたようだった。

とても2人の子持ちで離婚再婚を経験し、これからまた妊娠出産を控える40代主婦の書いたものとは思えなかった。

祈りにも似たその手書きの文章を読み、私もまた母のそれまでとそれからの生き方を思い、涙が零れた。


今年の夏、取り壊されてから初めて実家が在った場所を訪ねた。

空き地になったその土地を見ることは、少し怖くもあった。

壊される前に訪ねた誰もいない朽ちかけた家は、暗く冷たくて死を待つだけのようだったから。

市街地からそう離れていないのに鬱蒼とした森を抜けた丘に我が家は在って、高い木々に囲まれた急な坂道を足で登らないと辿り着けない。

小さい頃からその坂を毎日登り下りしていたお陰か今でも歩くのが好きで、結構な距離を歩いてもへっちゃらだ。

真夏の太陽の下、額に汗を滲ませながら坂を登り切ると、ようやくぽっかりと空いた一角が見えた。

そこは荒地であり、楽園だった。

いつの間にか野生のコスモスが茂り、その細く柔らかい枝の群れが海草のように風にそよいでいる。

早咲きの花は微笑み、その蜜を求め蝶たちが軽やかに舞っている。

一家族の記憶と残像をほのかに留めながらそこには新たな息吹が生まれ、素朴な美しいかたちを創っていた。

それは哀しみの先に在るひとつの幸福な光景に見えた。

何か優しく柔らかなものに包まれたまま、その後母の居る病院へ向かった。

ベッドに横たわる母は、以前よりまた少し小さく見えた。

かさかさになった顔と硬くなった手を濡れタオルで拭いて「ママ、ただいま。真理だよ。」と言うと、反応してうっすらと瞼を開けそうになるが、またすぐ閉じて夢の世界へ行ってしまう。

もうこうしてこの世界と夢の世界を彷徨い続けて15年の月日が経つ。

とても美意識の高い人だったから、こうして生きることはもし意識があれば辛過ぎたろう。

私たち家族もそれぞれに傷つき、こうしてそれが日常となるまでには時間が掛かった。

今も私たちの知る母と目の前で眠っている赤ん坊のような人を、同じには受け入れられない。

けれど苦痛や不満で歪んだ身体と顔を強張らせ、もはや言葉ではない呻き声を上げている周りの老人たちと比べ、母はいつも静かに安らかな表情を浮かべていて、それを見ていると一片の哀しみと共に陽だまりの中にいるような穏やかな優しい気持ちになった。

その母と実家の在った場所で見た光景とが私の中でぴたりと重なると気付いたのは、東京へ戻って暫く後のこと。

二つの場所で撮られた写真を眺めていると、目に見える物質は違ってもその温度だったり、心に触れる柔らかさだったり、哀しみや幸福は、全部同じものだった。

些細な事だけれど、15年ずっと母のことをどう捉えたらよいのかわからぬまま行き場のない気持ちを紛らわせて来た私に、それは小さな救いを与えてくれた。

「透明な感覚を持ちたい」と願い、そうして生き、母は自ら捉え難い存在になってしまった。

けれどその母を通して、ばらばらになった家族はいつもか細い糸で繋がっていたのだ。

荷物に紛れ込んでいた母のノートは、あの日の母から今の私へのラブレターだったのかもしれない。

だから私も、こうして宛てのない手紙を書き続けようと思う。

子供の頃、手の中に集めようとしても決して掴むことができなかった、あの光の一粒になるまで。