白旗

先日参加した或るファッションショーはモデル一人一人に旗があるショーで、それから何だか“旗”という存在が気になり出した。

“旗って一体何なのだろう”とか“自分の旗はどんなものだろう”“そもそも旗って必要?”などと。

ショー後のインタビューでデザイナーさんは「個人の旗は嫌いではないが、集団としての旗や国の旗はあまり好きではない。」とおっしゃっていた。

確かにビルやお屋敷、校舎の前に高々と掲げられた旗が頭上で棚引く様は、とても冷やかに感じる。

旗を揚げる為のロープが風の吹く度金属柱に当たるあの音が苦手だったのも、その威圧的で温もりを感じさせない存在ゆえだったのかもしれない。

以前兄が「凄く好きで3冊持っているから、おまえに1冊やる。」と司馬遼太郎の『殉死』という本をくれた。

半分も行かぬうちに私は挫折してしまったけれど、主人公の乃木将軍は西南戦争の際連隊旗を敵に奪われ、その自責の念から何度も自殺を図り、自ら戦死を望むような無茶な戦いを繰り返した。

ただ旗を失ったというだけで。

今となってはなぜ兄があの本を私にくれたのか、あの本の何がそんなに好きだったのか、その真意は謎だ。

ただ、乃木将軍がそこまで思い入れる旗は、権力と支配の象徴みたいなものだったのだろう。

その類いの旗は、私のような人間には必要ない。

けれど、運動会やサーカスで色取り取りの小さいな旗が連なって出迎えてくれると俄然心躍るし、ケチャップライスの丘に旗のないお子様ランチは、やはり物足りなさを感じてしまう。

とにかく旗は、平和だったり、幸せだったり、プライドだったり、何らかの志のぎゅっと詰まった象徴、表明なのだろう。

では、私に旗があるとしたら、それは一体どんなものだろう。

そのイメージを膨らませてみると、浮かぶのはどうしても白旗なのだ。

しかもシャツやシーツでできた旗。

一風変わったそのショーの時「モデルは各自好きな事をして下さい」と言われ、私は考えた末、時々シャボン玉を吹きながら洗濯物を干していた。

でも干す行為が好きというよりは、洗濯バサミで留められた洗い立てのシャツやシーツ、靴下が、陽を浴びて風に揺れる様が好きなのだと思う。

私にとってその光景は、白い鳩なんかよりもずっと、平和のシンボルのように映る。

それがきっと、私にとっての旗なのだ。

父について姉と「パパの凄いところは、大事なものの為に自分が折れられるところだね。」と意見が一致した事がある。

音楽好きの両親の影響で、家族6人とも何かしら楽器を習っていたのだが、家計が苦しくなってきた時真っ先に「俺が一番下手くそだから。」と言ってチェロをやめたのは、父だった。

振り返ると父の人生は、そういう事の繰り返しだったように思う。

そうしてある意味白旗を振りながら、父は必死で家族を守っていた。

降伏の白旗。

それは服従とはどこか違う。

それは極限で自ら切り開く道ではなかろうか。

争いをやめ生きてゆくという決意の表明。

白旗を掲げた家で生まれ育った子の旗は、やはり白旗なのだと思う。

それは決して平坦ではない長い道のりの中で、ほつれたり、汚れたりするだろう。

それでも繕い何度も手洗いしながら風にはためくその旗を、私は眩しく眺めていたい。